偶然の産物?屋根屋が教える”瓦の歴史”

瓦の歴史 雑談

瓦は誰が発明し、どこからきたのでしょうか?

今回は一般の方にもわかりやすく、瓦の誕生と変遷の歴史についてご説明してしていきたいと思います^_^

瓦の誕生

 瓦が地球上に誕生したのは、中国は西周(紀元前11~8世紀)の末期、今から約2800年前です。かまどの周囲の土が、燃焼して硬くなっていることを発見した古代の人は、住居の壁や床といった強度が必要な場所に粘土を塗り、直接火で燃やし焼き固めていました。

これが瓦の始まりとされています。土器や煉瓦がそうであったように、瓦も、人類が偶然に発見した文明の利器であったと言えます。

名前の由来

 瓦を、「かわら」と発音してますが、何故そう発音するようになったのでしょうか? これには、さまざまな説があります。

まず、サンスクリット語のkapala(カパラ)を語源とする説です。ka pala(カパラ)は頭蓋骨、陶片、覆うなどという意味です。中国から朝鮮、そして日本に伝わる間に転訛して「かわら」と発音するようになったのではないかという説や、甲冑の古名「かはら」や、亀の甲羅を「かふら」と呼んでいたことからという説、さらに屋根の皮だから、かわらと言う説もあります。

一番、有力なのは、サンスクリット語のkapala(カパラ)ですが、はっきりした定説は今のところありません。しかし、この四つの違う説に共通しているのが、護る、覆うという意味があることではないでしょうか。

瓦技術の伝来

「日本書紀」によれば、「588(崇峻元)年、百済から仏舎利が献上され、寺院建築に必要な、寺工(2名)・画工(1名)・路盤博士(1名)らと共に瓦博士(4名)が渡来した」とあります。

この4名の瓦博士とは、麻奈文奴(まなふみ)・陽貴文(やんぎふん)・陵貴文(りゃんぎふん)・昔麻帝弥(きまてや)で、渡来した技術者の半数を占めました。

大きな社寺を築く為に、当時の最先端の技術と材料、そして優れた指導者が必要だったのです。当時の日本では、板や草を屋根材としていたため、粘土瓦の登場は衝撃的なものでした。

日本初の瓦葺き建造物

 588年に、彼らの手によって日本初の瓦葺寺院となる飛鳥寺(法興寺)が大和平野南部の地に完成しました。

後に飛鳥寺は、元興寺として奈良の地に移築され、飛鳥の旧地の本元興寺は、火災によって1196(建久七)年に焼失しましたが、発掘調査によって創建瓦が出土しました。これが日本最古の瓦です。

そして592年には仏堂(金堂)と歩廊が完成し、596年には塔が完成しました。早くも607年には、国内の瓦職人による国産の瓦での屋根を葺いた法隆寺が完成しました。以降は、渡来した四人の瓦博士たちの手を離れて、日本独自の瓦文化がスタートしていくわけです。

この後、729(天平元)年諸国に国分寺を創建する命が下り、屋根瓦の製造、施工が全国各地に広まりました。しかし、平安時代になると、宮殿や邸宅では柿葺や桧皮葺が好まれるようになり、寺院建築も、簡素を良しとし、茅葺の寺院も多く建てられるようになり、こうして瓦は一時存在感が薄れつつあったのです。しかし城郭建築が盛んに行われていた戦国時代に入ると、武将達にとって権威を象徴し城を強固に護る瓦は、なくてはならない建築材として復権しました。

現在の一般的な瓦の誕生

本瓦葺の時代

 当時の瓦の形は本瓦葺と言って、社寺等に葺いてある形状で、平瓦と丸瓦を組み合わせて葺いていく工法でした。まず縦に平瓦(平たく少し丸みのある形状)を下から上に並べて、平瓦の合わ目、合せ目を丸瓦(円柱を半分にしたような形状)で覆います。

簡単に言えば、今で言う一般住宅の屋根に葺いてある瓦一枚が二つのパーツに分かれているような形状です。

本瓦葺

本瓦葺

 

庶民のための瓦が発明される

 時代が進み、1674(延宝二)年、近江の国大津(滋賀県大津市)にいた瓦職人で、三井寺御用達を務めていた西村半兵衛が、軽くて格安の瓦を造りたいと考え、平瓦と丸瓦を一体化することを考えました。

完成までおよそ10年の歳月をかけ、今の一般住宅などの屋根瓦に近い瓦が誕生しました。名称は、関東では江戸葺瓦、関西では簡略瓦と呼ばれましたが、後に、桟瓦とも呼ぶようになりました。

簡略瓦 江戸葺瓦 桟瓦

一般的な瓦屋根

瓦屋根の普及

政策に支えられた瓦屋根

 日本で瓦は、長らく寺院や宮殿、城郭など特別な建築物での使用のみでした。それは、庶民が屋根に瓦を葺くことは贅沢だと、為政者側が考えたからです。

江戸時代に入ると、江戸や大坂といった都市部への人口集中が加速し都市災害、特に火災の被害が甚大になりました。明暦の大火で江戸市街の約半分を焼失。江戸幕府は、度重なる火災対策に頭を悩ませました。

そして1720(享保五)年、八代将軍吉宗は、火災の延焼を防ぎ被害を最少限にできる瓦の有用性を認め、一般民家に瓦を葺くことを奨励する政策に転換しました。

さらに、当時の奉行大岡越前守が屋根に瓦を葺いた家には補助金を与える制度を作り、一般庶民も瓦の葺かれた家に住めるようになっていき、その後、瓦屋根は驚くべき早さで民家に普及しました。

大量生産の時代へ

 明治時代には海外貿易が盛んとなり「洋形」と呼ばれる洋瓦が登場します。屋根瓦の必要性に目を付けたフランス人のアルフレッド・ジェラールは、1864(元治元)年に来日し、開港間もない横浜で商売を興しました。

当初は食料品の船舶供給業を営んでいましたが、1873(明治六)年、横浜に近代的な工場を建設し、蒸気を使った機械でフランス瓦の製造を始めました。このフランス瓦は、洋風建築に大きな役割を果たしました。

このジェラール式に遅れること50年、大正時代に入ると、日本の瓦製造業者も製造工程の機械化を本格的に推進してゆき、瓦も大量生産の時代へと進んでいきます。

その後

 大正時代に入り1925(大正一二)年、関東大震災が起こり、この震災で瓦の信用を落とし、以後、瓦の需要は大きく減少するようになります。そして関東地方では、戦前までトタン葺が主流になりました。

そこで1926(大正一三)年に、内務省は市街地建物法施行規則を改正し、木に引っ掛けて葺く桟葺工法の使用を勧めていき、瓦の信用を取り戻していきます。昭和に入り高度成長期の日本では、瓦屋根が最盛期を迎えました。

しかし、1995年阪神淡路大震災を契機に、瓦屋根の需要が再び大きく減少していくこととなるのです。

瓦葺き士として思うこと

 ザっと瓦の誕生、変遷、そして栄枯盛衰をご紹介しました!筆者は学者ではないので、細かいところで誤りがあるかもしれませんが、ご了承ください!^^;

ご覧頂いた通り、瓦屋根は平安、大正、平成と、3度衰退した歴史がありました。この世の神羅万象には、必ず栄枯盛衰の歴史があります。そして、いつか瓦屋根の誤解が解け、再び最盛期が訪れんことを願うと同時に、この文化を風化させず、次世代にバトンを渡せるよう、瓦葺き士として日々精進していきたいと思います!

少し長くなりましたが、皆様の何かしらのお役に立てれば幸いです!^^;

最後までご覧頂きありがとうございました!^_^

 

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